終活は心のつながりから始まるものに変わっていく
1月というのは私にとって、毎年要注意の月です。
なぜならこの月になると、体調を崩したり、物事がうまくいかなかったり、訃報が相次いできたりするからです。
先日、いとこから急に電話が入りました。
普段は会うことも電話で話すこともめったにないので、最初は何だろうと戸惑いました。
そしてなぜかこれは出ない方がよいかもしれないという直観のようなものが走り、電話に出るのをためらってしまいました。
そうしたら、なぜかショートメールで叔父の健康状態についての知らせがきました。
病院の方から、かなり危険な状態なので家族や親族に知らせるようにと言われたということでした。
終活と親族間とのつきあい
親族とのつきあいの一つに葬儀やお墓参りへの出席というのがあります。
近しくない親戚でも親やそのまた親の代というのは、葬儀には必ず出席したり、最低でもお香典を渡したり送ったりしたというのがあります。
今でも親や兄弟に限らず、親族間の訃報や法事には必ず出席する、あるいはお付き合いするという人が多いと思います。
しかしコロナ以降多くの方が亡くなり、親族間でも度々葬儀が行われるようになったりすると、葬儀やお墓参りへのお付き合いというのも段々と変わったものになっていっているのではないかと思うのです。
例えば葬儀を簡素化にするとか、気持ちの中でお悔やみを述べてもらえば十分ですとか、絶対こうしなくてはいけないというものからもっと柔軟なものに変わってきていると思います。
血のつながりよりも心のつながり
そのように柔軟に考えられるようになれば、故人とのおつきあいが深かったり、生存中にお世話になったりなど故人との心の距離が近いことで、心からお悔やみしお別れをするという気持ちで法事に参列するというものに変わっていくのではないかと思うのです。
平素から交流がないにもかかわらず、親族だからという理由で危篤時での立会や法事への参加を促されるというのは、もうそろそろ見直す時期に来ているような気がします。
血のつながりを重視した終活に関わる制度も、今後は心のつながりを求めるものに変わっていくと思います。
家の格式や体裁、見栄を反映した制度ではなくて、生前の故人の考えや、家族がどのように故人を送り出していくか、他界した故人のことをどのように思い出し、日ごろから接していくかということを大切にし、終活の捉え方も柔軟になっていくことだろうと思います。